川崎市登戸の路上で、カリタス小学校の児童ら19人が刃物で刺された事件で、亡くなった1人である外交官の小山智史さん(39)について、続々と明らかになっている。
小山智史さんとは、どのような人物だったのか。これまでに分かっている情報をまとめてみた。
小山智史さんとは
出身高校・大学判明!外交官でミャンマー語を担当
報道によると
・外務省・広報文化外交戦略課の職員
⇒大臣クラス以上の通訳が期待されるミャンマー語の通訳担当官を務めたことも
・宮崎市出身
・宮崎大付属小中学校⇒宮崎大宮高校(64-70)⇒東京外国語大学(62.5-67.5)
・父親と最後に会ったのは小学生の時だった
⇒小山さんの活躍は聞いていた
・明るい性格で、同僚との助け合いを大切にしていた
・東京・世田谷区の寮で家族と暮らしていた
⇒休日はよく子どもと寮の敷地で遊んでいた
外務省職員「最高級に優秀な事務官だった。専門のミャンマー語もとても上手で、ミャンマーの担当が少ない中、ひとりで3人分の働きをしてくれていた。子どもをかばって亡くなったのかもしれないが、亡くなったことを知ったときにはことばにならなかった。日本外交にとっても損失だ」
小山智史さんは子どもの見送りに来ていたとみられ、最初に後ろから背中などを刺されて死亡した。
広報文化外交戦略課の業務は?
外務省HPによると
国内外への広報、報道関係者への情報発信、文化の分野における国際交流による対日理解の増進に関する基本的な方針の企画、策定及び実施
経歴は?
・大学入学当時、一般に知られていない珍しい言語を学びたいと思って、ミャンマー語を専攻科目に選ぶ
⇒在学中に初めてミャンマーを訪問・大学で学んだことを活かせる仕事に就きたいと2004年に外務省に入省
⇒研修語は希望通りミャンマー語を指定される・東京での研修を終え、2005年にミャンマーを訪れる
⇒研修先は語学留学生にとってほぼ唯一の選択肢である「ヤンゴン外国語大学」
⇒授業内容が初習者向けのため、学校と交渉して上級クラスに編入・2年間の研修を経て、3年間は在ミャンマー日本大使館で勤務
⇒政務分野を担当する傍ら、要人訪問の際には通訳業務も・2013年4月、ノーベル平和賞受賞者で世界的な著名人であるアウン・サン・スー・チーさんが訪日した際には、担当官として京都日程に同行
⇒スー・チーさんが市内でプライベートの買い物をするため急遽、通訳を務めることも「特に大変だったのは、 昨年、日本政府が派遣したミャンマー文化・スポーツ交流ミッションに同行した時です。大統領に加えて3閣僚、それぞれ一時間以上の会談を、朝から、昼食も抜きで通訳しました。しかもその会談の記録を、その日の内にほぼ全て自分で作らなければならず、あの日は全て終わった後はさすがに灰色になってましたね・・・」
外務省HPより
ハフィントンポストによると、帰国後は大臣官房総務課を経て、南部アジア部南東アジア第一課に勤務。ミャンマー語の通訳担当官を務めていたという。
また、13年の国連総会の際に行われたミャンマー外相と会談した岸田文雄外相(当時)の通訳も担当したそうだ。
南部アジア部南東アジア第一課の業務は?
外務省HPによると
ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、ラオスに関する外交政策
外務省への入省の動機は?
https://www.facebook.com/Mofa.student/photos/a.1451930265052211/1500485663530004/?type=3&theater
大学でビルマ語学科を志願した理由は、ミャンマーについてよくわからないからこそ魅力を感じたから
また、ビルマ語学科の大学後期入学試験の倍率が他言語と比較して最も低かったからです(笑)
大学でミャンマー語を学んだので、その勉強を生かせる外務省の専門職になろうと決め
専門職試験を受験し、現在外交官として働いています
▼2014年版の外務省・専門職員採用案内
小山智史さん妻のコメント
突然のこと過ぎて、深い悲しみの中にあります。今は何も考えられない状態です。そのため、とても取材等には応じられません。どうか取材等は、お控え下さるようお願い致します。
河野太郎外相のコメント
河野太郎外相は29日、川崎市で児童らが殺傷された事件で外務省職員の小山智史さん(39)が死亡したことについて「ミャンマー語のスペシャリストで大変優秀な若手だった。本当に残念だ」と外務省で記者団に語った。家族への支援に取り組む考えも示した。
(中略)
河野氏は「ミャンマーの大使館に勤務してもらったこともあり、日本のミャンマー外交を背負う1人だった」と語った。